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なぜ社会は個性を無視するのか?俺は俺なのに!

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無職になり改めて感じる「社会人」という言葉の曖昧さ - ぐるりみち。

こちらの記事を読んだ。こちらに直接コメントさせていただいたのだが、ここでもう少し僕の考えを細かく書こうと思う。

 

僕たちはよく、いろんな「身分」を表す言葉で括られる。学校に通っている人は「学生」という言葉で括られるし、社会で働いている人は「社会人」という言葉で括られる。さらに「男・女」という性別は僕たち人間を2種類に分けている。僕たちは常に「男・女」という括りを意識しながら生活している。

 

「身分で括ること」によって僕たちは、人を判断しやすくしている。初対面の人に会ったとき、まずはその人が男であるのか、女であるのかを判断するだろう。次に「何をされてる方ですか?」と質問することで、相手の社会的な身分を判断しようする。その人の性別と社会的な身分が分かれば、その人についての最低限の情報を得たことになり、ある程度その人を理解したことになる。「身分で括ること」は、人を判断しやすくするというメリットを持っているのだ。

 

 

だが一方で、デメリットも抱えている。

 

1人の人間を「身分で括ること」は、その人の「個性」を無視することに繋がる。この世界にまったく同じ人間は存在せず、人は誰とも被らない「個性」を持っている。人によっていろんな「個性」があるからこそ、僕たちは人に惹かれたり、あるいは人を嫌ったりする。「個性」があるから人間関係は複雑にもなるし、おもしろいものにもなるのだ。

 

だが、僕たちはついつい「個性」を無視して、「身分」だけで人を判断しがちだ。男女差別なんかはその典型的な例だ。女性は、「女」ということだけで社会的に不利な扱いを受けることがある。男性に比べて賃金が低かったり、家事を強いられたりといった具合にだ。このとき女性は「個性」を無視され、「性別」だけで判断されている。女性の中には、仕事が得意な人もいるだろうし、家事が苦手な人もいるだろう。それも立派な「個性」だ。それなのに、「女」という性別で括られ、「個性」は無視される。これはいかがなものだろうか?

 

たしかに「身分で括ること」は人を判断するときの重要な材料になる。だが、身分はその人のごく一部の要素でしかない。A君という大学生にとって、「大学生」という身分がA君のすべてではない。A君にはもっと多くの「個性」がある。A君は勉強が苦手かもしれないし、料理がとても得意かもしれないのだ。

 

「学生らしくあれ」とか「社会人らしくあれ」という言葉も「個性」を無視している。人はそれぞれいろんな「個性」を持っているのに、この社会では、それよりも誰かが要求する理想の「学生像」あるいは「社会人像」を重視しなければいけないのだ。誰かにとって都合の良い存在になるために、かけがえのない「個性」を押し殺さなければならないのだ。

 

誰だって、自分の「個性」を無視され、「身分」だけで判断されるのはイヤなはずだ。人を判断するとき「身分」だけで判断し、その人の「個性」を無視してはいけない。その人は世界に1人しかいない存在なのだから、勝手に「身分」だけで判断し、他の人たちと一緒にしてはいけない。「身分」はその人を判断するときの一要素であって、「身分」がその人のすべてではない。

 

もっと「個性」を大事にした社会、「俺は俺だ!」と自信を持って言える社会になってほしい。