生きづらいふ

人生をクリアに、シンプルに、さわやかに。

生きづらさは最大の武器になる、人生で一度立ち止まることの大切さ

僕の人生ってなかなかおもしろい。いや別にアクシデントばっかりだったとか、ものすごい体験をしたとかではないけど。でも、なんかおもしろい。

 

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高校3年生までは、いたって普通のどこにでもいる日本人として生きてきた。普通に学校に通って、それなりに勉強して、それなりに友達がいて、それなりにスポーツして。誰もが経験するようなスタンダードな人生を歩んできた。見かけ上は。

 

だけどじつは、小さいころから水面下で心によくないダメージを溜め込んできていた。両親の不仲、暖かみのない家庭、感情の抑圧など、子どもが健全に発達するには不十分な環境で育ってきたことによって、気づかないうちに心に「毒」が蓄積されていた。

 

その「毒」が思春期になって突如、僕の心を蝕み始めた。それはちょうど高3の夏だった。部活を引退し、僕の自尊心が薄れ始めた頃だった。とあるできごとをきっかけに、僕は自分に絶望した。

 

その瞬間から、僕の生きづらい人生、「生きづらいふ」は始まった。それまで見かけ上はスタンダードな人生を歩んでいた僕が、心のなかに毒を抱え、だんだんみんなとは違う人生を送るようになる。

 

大学では、みんな普通にサークルに励んだり、バイトを頑張ったり、友達とわいわいやったり、親元を離れ自立したり、就職のために自分磨きしたりしている。しかしこれらは、もはやスタンダードな人生コースから外れた僕にはできないことばかりだった。

 

どこにでもいるスタンダードな人間だったはずの僕が、いつのまにかマイノリティな存在になっていた。生きづらさを抱え、みんなが普通にできることが思うようにできなくなった。人を恐れ、自分を嫌い、社会に出るのがコワくなった。

 

前までは、生きづらさを感じている自分の現状がイヤでイヤでしかたがなかった。こんな人生もうイヤだ、なんでこんなに辛いんだ、と叫び声をあげていた。

 

だけど最近は、なんだか自分の人生を肯定的に捉えられるようになってきた。むしろ、僕の人生ってなんかおもしろいじゃんって思えてきたのだ。

 

普通の人が躓かないところで僕は躓いた。多くの人からしたら理解できないようなポイントで僕は立ち止まった。その場に立ち尽くし、人生と自分自身に絶望していた。

 

しかし、僕はいま少しずつ少しずつ、また人生を歩み始めている。ゆっくりではあるけど、やっとまた歩き始めた。カメのようにゆっくりかもしれないけど、また歩こうと気持ちが動いただけでも大きな進歩だ。

 

人生が動き始めて、気持ちに余裕が出てくる。そして、自分の人生について考えてみる。すると、なんだかこんな人生も悪くないなぁって思えた。生きづらさと直面する人生も悪くない。生きづらさを感じる人は、誰よりも人生について考えることができるから。

 

普通に学校行って、普通に就職して、普通に結婚して、普通に家庭を築いて、普通に死んでいく。そんな普通の人生を歩もうとしていた途中で、僕は一度立ち止まった。人生について、自分について考えた。そしたら、“普通じゃない”人生が見えてきた。

 

もっといろんな生き方がある。もっと自分らしい生き方がある。もっと生き生きと生きることができる。そんな人生が少し見えてきた。それは僕が生きづらさに直面したからこそ見えた人生だ。

 

僕はいま、「ああ、生きづらさを感じれてよかった」と思っている。それに、「この人生もなかなかおもしろいじゃん」って思っている。これからどうやって生きていくのか、ノープランに近いけど、あんまり悲観はしてない。

 

僕はこのブログを「生きづらいふ」と名づけた。僕の生きづらい人生を吐露するという意味であり、どちらかといえば、「生きづらいふ」はネガティブな言葉だった。

 

だけど、今は違う。「生きづらいふ」は僕の人生を肯定するポジティブな言葉になったのだ。生きづらさを感じるのは弱みじゃない。誰よりも人生について深く考えることができるという点で、生きづらさは僕の最大の強みなのだ。