生きづらいふ

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僕が「生きづらさ」を感じるキッカケになったあの日の出来事

今までさんざん僕が言ってきた「生きづらさ」。その生きづらさは、おもに強い自己嫌悪感が原因になっているのだけど、そもそも僕が激しく自己嫌悪するようになったのは、高校3年のある日の出来事がキッカケだった。

 

それは、高校3年生の6月半ばごろだった。僕は体育の授業でバレーボールをしていた。クラスの男子、およそ20人を3チームに分けてバレーボールの試合をしていた。試合といっても、そんなにガチでやっていたわけではなく、楽しく遊びながらやっていた。

 

クラスの男子をチーム分けすると、おのずと仲良し同士、もしくはいつものグループ同士で固まる。僕はクラスのなかでも、比較的おとなしい男子たちとチームを組んだ。残り2つのチームは、元気でワイワイ系な男子チームと、中間層のグループだった(気がする)。

 

で、順番にどんどん試合をやっていくのだが、僕のチームとワイワイチームが対戦をしたとき、僕が激しく自己嫌悪するキッカケになる出来事が起きた。

 

おとなしいチームとワイワイチームが戦うと、両チームの温度差がすごかった。ワイワイチームは、ポイントが決まるごとに歓声があがり、盛り上がっていた。そして、なによりみんなで楽しそうにやっていた。一方、僕のおとなしいチームは、それはもう葬式帰りか?と疑うほど静かだった。無言ってほどではないが、感情表現がほとんどなかった。

 

ワイワイチームの人たちは、単にバカみたいに盛り上がっていたわけではない。せっかくならみんなで楽しくやろうよ、というつもりで場の雰囲気を盛り上げようとしていたのだ。僕はあの人たちが、ただ元気な人たちなのではなくて、きちんと空気を読むことができる優しい人たちなのだと知っていた。

 

ネットの向こうのクラスメイトはみんなで楽しくやろうと盛り上げてくれている。なのに、僕は自分のことばかり考えて、おとなしくしているだけ。恥ずかしい思いをしたくないから、静かに佇んでいるだけ。傷つきたくないから、無言でバレーボールをしているだけ。

 

 「結局、自分のことしか考えてないんだ…僕は」

 

そのことに気付いた瞬間、僕はバレーボールコートのなかで、自分自身に絶望した。自分が自己中心的で、最低なやつだということに気付いてしまった。そこに立っていることが辛くなった。

 

体育の授業が終わったあとも、その日はずっと教室の自分の机に突っ伏していた。自分が、自分のことしか考えていない自己中野郎だったということがあまりにショックだったのだ。授業が終わり、家に帰るときにも頭のなかではずっと、「僕は自分のことしか考えていないんだ…」と同じことを考えていた。

 

それから今までの自分の行動を振り返ってみると、あらゆる場面で「自分のことしか考えていない」行動をしていたことに気付いた。たとえば、僕が人に「ごめん」、「すみません」というときは、相手への謝罪の気持ちではなく、ただ自分のことを許してほしいだけで言っている、ということに気付いた。

 

「自分のことしか考えていない」

 

このことに気付いた瞬間から、激しい自己嫌悪がはじまり、生きづらさへとつながっていった。生きづらさがだいぶ解消された今でも、この点だけはいまだに気にしている。どうしても受け入れることができない。

 

あのバレーボールの授業から僕の生きづらさはスタートした。ほんとならこのブログの1記事目に書くべきことな気もするけど、なんとなくずっと後回しにしていた。やっと書けて今はすこしスッキリしている。

 

「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)

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