生きづらいふ

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承認欲求を満たすためだけにブログを書くことはむなしい

こないだのブログで、「ブログになにか変化を加えたい」と言った。辞めるのか、タイトルでも変えるか、内容を変えるか、ジャンルを変えるか、キャラを変えるか。なにかしら変化を加えて、ブログを有効活用していきたいという思いからそう言った。

 

昨日、少し時間をかけて、「ブログをどうするか」考えていた。まず、そもそも何のためにブログを書くのか、から考え始めた。紙に書きながらいろいろと考えていくと、ある結論に至った。

 

「僕は他者から評価されないと生きていけない」

「今の僕は、ブログをやることによって他者から評価されている。」

「だから、いま僕は元気に生きていけている。」

 

人から承認、賞賛されたい、と思うのはみんなそうだろう。でも、僕はあまりにそれに依存しすぎている。イメージ的には、自分の足ではまったく立てないけど、他者によって腕を引っ張り上げてもらうことでやっと立てているような感じだ。要介護の状態。自分一人では立てない。

 

ブログを書き続けることによって、僕は一定の評価を得られている。本当に評価されているかは分からないけど、少なくとも僕はそう感じている。「僕がブログを書けば、読んでくれる人がいる。」「僕の文章に興味を持ってくれる人がいる、共感してくれる人がいる。」そんな風に感じられることで、僕は生きていけている。

 

なにもそれは完全に悪いことではない、とも思う。ブログを書いて、読者に読んでもらいたいと思うのはおかしなことではない。小説家だって、漫画家だって、ライターだって同じように思うだろう。けど、僕の場合、そればっかりになってしまって、書くという行為自体が自分のためになっていない気がするのだ。

 

「ただ認められたいから」その一心で文章を書き続けるのは、なんだかむなしい行為に思える。留まるところを知らない承認欲求を満たそうと、延々書き続けるのはすごくむなしい。ちょっと大げさに言えば、薬物中毒と同じような感じがする。一度、味わってしまえば、もうそれなくしては生きていけない。何度も何度もそれを求めようとして、それにすがりついてしまう。

 

「ねえねえ、見て見て」

「ねえねえ、かまってかまって」

「ねえねえ、今日はこんなの書いたよ」

「ねえねえ、すごいでしょ」

「ねえねえ、褒めて褒めて」

 

こんな思いでブログを書き続ける自分を哀れに思う。承認への依存というのは強烈だ。それこそ薬物やアルコール依存と同じくらい強烈かもしれない。抜け出さなくてはいけない。いつまでもここに浸かっていてもしょうがない。いつか承認に溺れてしまいそうな気がする。

 

「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)

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