生きづらいふ

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人材という言葉が嫌い

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「人材」という言葉がある。社会に貢献できる有能な人のことを指すらしい。

 
 最近はよくテレビやネットでもこの言葉が使われている。「グローバル社会に対応できる人材が求められている」だとか、「これからの時代を担う人材育成」といった具合にだ。
 
 
 
 
 社会の側は、厳しい競争社会において遅れを取らないように、優秀な人材の発掘を目指している。一方、学生の側も、社会の期待に沿えるような人材になろうと、自らを磨き上げる。文字通り、社会はこの現代社会で"使える材料"を求めているわけだ。
 
 
 
 料理で例えれば、おいしい料理を作るにはまず良い材料が必要になる、というのと同じことだ。良い社会を作るには、優秀な人材が必要になるということなのだ。
 
 
 
私たちはいつもおいしく牛肉を食べている。私たちがおいしい料理を食べるために、たくさんの牛が人間に飼育されている。人間は様々な工夫をこらして、質の良い牛肉を生産している。つまり、人間がおいしい料理を食べるために、その材料として質の良い牛肉を作り出しているということだ。
 
 
 
話を人材に戻す。良い社会を目指すためには、それだけの能力を持った人材が必要になる。そして、人間が良い牛肉を食べるために牛を飼うように、社会もよりよい社会のために優秀な人材を育成しようとする。あたかも、すべての人間がより良い社会のための材料であるかのように。
 
 
 
牛は人間においしく食べられるために生まれてきたか?いや、違う。人間が勝手に材料として扱い、人間の欲求を満たすために牛は飼われている。そこに牛の意思は存在しない。社会においても、同じようなことが起きているように思う。社会は若者たちに、「優秀な人材」になるよう期待を寄せている。確かに、これからの時代を作っていくのは若者であり、その中から時代を切り拓くリーダーが出てくることは必要だ。しかし、私が問題だと思うのは、若者の意思とは無関係に良い人材になるように社会が圧力をかけている点だ。すべての人が社会で時代を作っていくビジネスマンやリーダーになるわけではない。それぞれ生きたい道がある。それを無視して「人材」という言葉を振りかざし、若者に期待を寄せるのは、私にはうっとうしいものでしかない。
 
 
 
そして、何より「人材」という言葉を聞くと、自分のことを「材料」呼ばわりされているようで不愉快になる。私にはもっと自分の意思がある。誰かに使われるために生まれてきたのではない。私は私の生きたいように生きる。
 
 
俺は社会の材料じゃない。