生きづらいふ

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クソまじめすぎて肩の力の抜き方が分からない

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まじめすぎて、ふざけ方が分からない。

 

自分で言うのもなんだけど、僕はまじめだ。むしろクソまじめすぎるくらいだ。クソまじめすぎて、逆にふざけ方が分からないのだ。

 

小学生のころから、先生や友達に「まじめだね」とさんざん言われてきた。それが僕の大きな特徴だった。メガネをかけていることから、見た目だけでまじめだと思われることも少なくなかった。

 

自他ともに認めるまじめ人間としてここまで生きてきたわけなのだが、困ったことにクソまじめすぎて僕は不まじめになることができない。羽目のはずし方が分からない。ふざけ方が分からないのだ。

 

学校生活では基本的には静かに授業を受けるだけでよい。しかし、学校行事では静かにイスに座っているわけにはいかない。たとえば体育祭なんかでは、自分のクラスや自分の学年の勝利を目指して、仲間たちと協力してスポーツに取り組まなくてはならない。

 

僕はスポーツがてんでダメというわけではない。一応、運動部に入っていたし、体を動かすことも嫌いではない。だけど、僕が体育祭で苦手なのは、みんなで多いに盛り上がる、というところだ。

 

自分たちの仲間が競技しているときには、クラスのみんなで応援したりする。みんなでダンスを踊ったりする演目があったりもする。僕はああいうお祭り的な雰囲気が大の苦手だ。

 

いったいどうやってその場のノリについていっていいかまったく分からない。恥ずかしいとか、自信がないとか、周りの目線が気になる、とかいろいろ感情は沸き起こる。だけど、根本的にそういうお祭り的な雰囲気でどういう風に羽目をはずしたらいいのかがさっぱり分からないのだ。

 

 

まじめすぎてふざけ方が分からない、というのはなかなかに困りものだ。さらに困ったことに僕はまじめすぎて、常に体に力が入っている感じがする。そして、その力の抜き方が分からない。

 

よく、日常生活の中のなんでもない瞬間に、ふと自分の肩がやたらと上がっていることに気づく。そのたびにストンと肩を下ろす。すると、今までどれだけ自分の肩が上がっていたかに気が付く。

 

肩が上がるのは、別に緊張している場面や真剣になっているときに限らない。普段の食事の最中とか、電車に乗って移動しているときとかにも肩は上がる。なんなら寝ているときでさえ、肩が上がっている気もする。

 

肩が上がっているということは体に力が入っている、体が強張っているということだ。今年に入ったあたりから、このことに気づいた。だから、肩が上がっていることに気づいたら、ストンと落とす癖をつけている。

 

まじめすぎてふざけ方が分からないのと同じように、体の力の抜き方も分からないのだ。どうしても、体に力が入ってしまう。というか、これは普通のことなのかもしれない、という考えさえ浮かんでくる。みんなもこんなに肩に力が入っているんだろうか?

 

 

まじめすぎるがゆえに、ふざけ方が分からない。羽目のはずし方が分からない。気の抜き方が分からない。つまり、ストレスの発散がヘタということだろう。ストレスを発散する方法が分からず、どんどん溜め込む一方なのだろう。

 

それに、まじめすぎて体に力が入っている。強張っている。四六時中、体に力が入っているのだから、なかなか疲労は解消されない。

 

まじめすぎてストレス解消と疲労回復がへただと書くと、僕が日ごろヘトヘトになっているようにも思うかもしれない。だけど、結構そんなこともない。たしかに、人よりダルいと感じることや疲れたと思うことが多いかもしれない。でも、僕にとってはそれが当たり前なのだ。もうだいぶ前からこんな生活をしてきたのだから、この状態が僕にとって通常の状態なのだ。

 

「まじめ」という性格は、一見良い性格のようにも思える。だけど、まじめすぎるのはなかなか考えものだと思う。もっと、肩の力を抜いて、気楽になりたい。

 

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