生きづらいふ

人生をクリアに、シンプルに、さわやかに。

人生を絵を描くことに例えてみた。どんな絵を描くかなんて自由に決まってる。

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人生は絵を描くことと同じだと思う。

 

生まれたばかりの赤ちゃんに一枚の大きな画用紙が与えられる。この世に生まれた赤ちゃん全員がその画用紙をもらえる。その画用紙こそが命だからだ。

 

人はその画用紙に絵を描く。いろんな色を使って、いろんな種類のペンを使って、思い思いの絵を描く。その作業が人生というものだ。

 

人によって人生が異なるように、描く絵も人によって異なる。

 

絵を描く能力だって違う。絵を描くのがうまい人だっていれば、へたな人だっている。でもへたな人だって絵を描く権利はある。なにもへただからって絵を描いちゃいけないわけじゃない。これは人権と同じことだ。どんな人だって生きる権利がある。

 

この現代社会は他人から評価される有能な人に優しい。優秀な人がお金を手にし、他者から評価され、自由で幸福な人生を歩める。うまい絵を描く人は評価されるが、へたな絵は見向きもされないのだ。絵がへたな人の人生はさびしい。誰だって絵を描いていいはずなのに、そこには常に評価が付きまとう。思い思いの絵を描いていいはずなのに、人から評価されない絵はだめな絵だと言われる。なぜだろう?

 

絵を描くときの最低限のルール(人生で言えば法律)さえ守っていればどんな絵だって描いていいはずだ。すばらしい風景の絵を描いてもいい。魚の絵を描いてもいい。山の絵を描いてもいい。道に落ちている石ころの絵を描いてもいい。なにがなんだかよくわからないものを描いてもいい。何を描くかなんて自由に決まってる。

 

人生で受験に成功したら、画用紙に書き加えられる。就職に成功したら書き加えられる。結婚したらまた書き加えられる。そうやって自分の絵を、人生を、彩っていく。それが人生だ。 だけど世界のどこかには、常にその画用紙が誰かに取り上げられてしまいそうな人がいる。戦争をしている国、内戦をしている国。食料がない国。水がない国。そんな国に住んでいる人たちはいつ自分の画用紙が取り上げられるか分からない。空爆によって命を失うかもしれないし、飢え死にしてしまうかもしれない。

 

日本のような平和で安全な国では、ひとりひとり画用紙を持つことが保障されている。でもそうじゃない人も世界のどこかにはいる。その人たちは自分の画用紙を守ることに必死だ。「できるだけ絵を描くんだ!」「今日も描くんだ、そして明日も描くんだ!」と。みんなが毎日、絵を描き続けられる喜びを噛みしめ、思い思いの絵を描く。絵を描けること自体に喜びがある。

 

でも僕たちにとっては画用紙を持っていることは当たり前だ。そんなに画用紙を取り上げられる危険もない。画用紙を守り抜くことよりは、どんな絵を描くかに集中する。すばらしい絵を描くことを目標にする。人から評価される絵を描こう、とかへたな絵は描かないようにしよう、とか常に他人の目を意識した絵を描こうとする。とても贅沢だ。

 

僕たちはどんな絵を描いたっていいはずだ。その画用紙がボロボロになってついに破れるときが来るまで、描き続けることができる。うまい絵でもへたな絵でもいい。人から評価される絵でも見向きもされない絵でもいい。絵を描くことは限りなく自由だ。人生は自由なのだ。

 

でも忘れちゃいけないのは、画用紙を持っている喜びだ。絵を描ける喜びを忘れちゃいけない。画用紙なんていつ風で吹き飛ばされてしまうかわからないし、悪い人から取り上げられてしまうかもしれない。それでも、この国では安全に画用紙を持っていられる。画用紙を持つことが当たり前になると、つい絵を描く喜びを忘れてしまう。どんな絵を描くかなんて完全に自由だし、絵のすばらしさで勝負する必要なんてまったくない。絵を描く喜びを忘れずに夢中になって自分の好きな絵を描くことが一番大事だ。人生だって、どんな人生を生きるかは自由だし、人から評価される人生だけが良い人生なんじゃない。生きることができる喜びを噛みしめ、夢中になって自分の好きなように生きることが一番人間らしい生き方だと思う。