生きづらいふ

人生をクリアに、シンプルに、さわやかに。

30秒で自己肯定感を上げる方法を見つけた

こないだ皿洗いをしているときにふと思った。

 

家にはいろんな物があるなあ、と。

 

そして、その物のほとんどが自分のお金で買ったものだなあ、と。

 

見渡してみると、お皿、コップ、スポンジ、洗剤、フライパンなどのキッチン用品。右を見れば、炊飯器にティファール、そして冷蔵庫。首をひねってリビングのほうを見れば、テレビ、テーブル、ソファ、カーペット。Nintendo SwitchPS4。そのほか、本や、PCや、とにかく改めてひとつひとつ目にするとかなりの量の物があった。

 

そしてこれらは全部、自分で働いて稼いだお金で買ったんだ。

 

つまり、自分がつらい仕事に耐えたり、乗り越えたり、がんばったりした対価として、いまこれだけの物が身の回りにある。このたくさんの物たちは全部、自分ががんばってきた証なんだ、と考えたらなんだか少し報われたような不思議な気持ちになった。

 

仕事が嫌だなあ、とかつらいなあ、と日々思い、なんのためにがんばってるんだろう、とかこの苦行はいつまで続くんだろう、とかやるせない気持ちになるけど、でも改めて周りを見てみれば、ちゃんと自分のがんばりが形になっていた。

 

自分がこれまでやってきたことが物という形で可視化されたような気がして、すこし気持ちが楽になった、と同時にもっとがんばればもっと豊かになれる、とも思えた。一方で、すでにこれだけ豊かなんだからもう十分かなという気持ちも少々...

 

仕事ができなくて、スキルも身につかなくて、なにも成し遂げていないな、と思っていた。けど、このことに気づいて少し自分を肯定できた。まだまだがんばらないといけないけど、これまでやってきたことはちゃんと自分の生活を豊かにすることに繋がっているんだ、もっと大袈裟にいえばちゃんと自分の幸せに繋がっているんだ、と思えた。

 

これからも心が折れそうになる場面がたくさんあると思うけど、そんなときは周りを見渡して、「ああちゃんとがんばってきたんだ」と自分を肯定してあげたい。

耽りたい

物思いに耽る。

 

そういう時間が好きだ。

 

取り止めもなく、なにかを思う。あのときのこと。あの子のこと。これからのこと。

 

小学生から高校生にかけて、一年に一度、家族旅行に行っていた。親が車を運転し、静岡まで旅行に行くのがお決まりだった。だいたい夏休みに2泊三日して帰ってくる。その帰り道の時間が好きだった。

 

いわゆるお盆の帰省ラッシュの只中。お昼過ぎにホテルを出発しても、すぐに渋滞に巻き込まれてなかなか進まない。数時間経って、やっとやっと渋滞を抜け出してすいすい進むようになったころにはあたりはもう真っ暗。

 

真っ暗な高速道路。あそこを走っているときが好きだった。

 

窓の外を走り抜けていく何本もの街頭にぼんやりと目をやりながら、たまに前方を見たりすると、いくつものテールランプが連なっていて綺麗だった。

 

弟たちはすっかり眠ってしまっている。僕以外に起きているのは、何時間も運転しっぱなしで疲れているだろう母だけだ。

 

会話をすることもなく、お互い自分の世界に入り込んでいた。

 

ゴーっという車が駆け抜ける音だけが響く中、ただ自分の世界に入って物思いに耽っていた。なにを考えていたのかは覚えていないし、たいして意味のあることは考えていなかったと思うけど、でもあの時間が心地よかったことは覚えている。

 

いま普段の生活のなかで、そうやって自分の世界に入り込んで耽る時間はそうない。

 

ついスマホを手に取って、必要なんだか不要なんだかわからない情報を無限にインプットしてしまって、自分の世界に入ることなんてしない。

 

やっぱり物思いに耽るには乗り物に乗って移動しているときが一番適している。

 

そのために移動する時間を作りたいとさえ思う。できれば夜がいい。夜行バス、夜の飛行機、タクシー。もしくは免許を取って自分で運転するのもいいかもしれない。慣れないうちは自分の命を守るのに必死で物思いに耽っている場合ではなさそうだけど。

 

いったいぼくはそうまでして、なにを考えたいんだろう。いつもなにを考えていたんだろう。

 

そう思って、いくつかの場面を思い起こしてみる。自分が夜の空を見つめながら耽っていた時間を。

 

片思いだ。

 

その時のぼくは片思いをしていた。

ただ平凡に幸せになりたい

ただ平凡な幸せを手に入れたい。そう思うのは贅沢だろうか。

 

誰もが羨む大成功とか、大それた人生なんていらない。ただただ平凡で、庶民的で、小さくて、ささいな日常に幸せを感じられる、そんな人生がほしいだけ。

 

小さい頃は、当たり前のようにそんな人生が手に入ると思っていた。よくも悪くも普通の人生を歩むのだろう、と。社会が作った"普通"の人生を歩むと信じていた。

 

22歳で大学を出て就職。スーツを来て普通のサラリーマンをやって、特別優秀なわけでも、反対に無能なわけでもない"普通"の社員として仕事していると思っていた。早ければ27歳、遅くとも32歳くらいまでには結婚して、子供ができていると思っていた。

 

そんな人生をリアルに描いていたわけでも、そんな人生を歩みたいと強く願っていたわけでもないけど、なぜか無根拠にそうなるだろうと空想していた。小さいころドラえもんとかクレヨンしんちゃんを見ていて、そこで描かれるひと昔前の理想の家族像を当たり前だと信じていたからかもしれない。 

 

いまも特別不幸なわけではない。少なくとも身の回りの環境としては。

 

衣食住は満たされている。それだけでも感謝すべきことかもしれない。

 

それなのに、毎日なにかが不満で、どこか満たされなくて、苦しい。

 

自分のことが好きになれず、仕事のことも好きになれず、毎日消耗している。なにかに向かって精力的に生きているわけではなく、毎日をやり過ごすように生きている。余暇の時間さえも、心から楽しんでいるわけではなく、ただ時間を埋めているだけのようだ。

 

そうじゃないんだ。

 

ただ平凡に幸せになりたいんだ。

 

それがどんな形なのかはわからない。平凡な幸せとはなんなのかと問われたら、明確に答えることはできないかもしれない。けど頭のなかでなんとなくイメージしている幸せ像ならある。

 

それはもしかすると、これまでの人生で触れてきたいろんな作品のなかからかいつまんだり、そこから着想してつくった自分なりの幸せ像なのかもしれない。読んだ小説、見たドラマ、映画。そんな作品のなかで描かれたいろんな幸せを集めて作った幸せ像。

 

そこまで高望みしていないはずなのに。それでさえ幸せを手に入れるのはこんなにも難しいのかと。日々こんなに耐え忍んでいるのに。心身をすり減らしながらも我慢しているというのに。

 

幸せとはほんとうに存在するのかとさえ疑ってしまう。

 

でも、心のどこかではわかっている。幸せはそこら中にあるのだと。それに自分が気づいていないだけなんじゃないか。もしくは気づこうとしていないだけなんじゃないか。もしかすると、ぼくは自分で不幸でい続けることを選択しているのかもしれない。

 

幸せになるには自分自身が変わらないといけないと薄々わかっている。

 

けどいったいどうすれば。その方法がわからない。

 

しかし、仮に方法がわかった時、ぼくは真っ先に幸せへと向かって突き進むだろうか。

 

もしかしたら、まだ不幸でい続けることを選ぶかもしれない。わからない。けどそんなような気もしてしまう。なぜだろう。幸せになることを望んでいるはずなのに。

 

どこかで不幸でいることに安心を覚えているのかもしれない。長年慣れ親しんだ場所から抜け出すことが怖いのかもしれない。オンボロの狭い狭い家に住み続けた結果、きれいで広い新築の家に引っ越すチャンスができたとしても、安心感からオンボロの家に住み続けることを選択するような感覚かもしれない。

 

幸せになるのは思っていたより難しい。

 

けどせめてこの、幸せになりたい、という気持ちは大切にしたい。

 

本当にダメなときは生きる活力が一切なく、いますぐここから消えてなくなりたいと思ってしまう。

 

ただそこから這い上がって幸せになりたいと思えるようになったのなら、それは生きようと思っている証拠で、なおかついまより良くなりたいという前向きな思いだ。

 

実際にどうしたらいいのかはわからない。

 

けどいまより、良く生きようと思う気持ちは大切に、自分を励ましながら生きていきたい。

 

そして、いつか日常のほんのささいな出来事に幸せを感じられるようになりたい。

ブログをはじめて6年が経ちました

月日は流れ、このブログをはじめてから今日でちょうど6年が経った。6年前はまだ大学3年生だった。いまよりも強く自己嫌悪していて苦しかった時期で、その苦しさを文字にして表現して誰かに見てもらうことで和らげようとブログをはじめた。

 

あれから6年。社会人4年目を迎え、いまだに自己嫌悪する日々だけど、当時よりは幾分マシになった。ダメダメだけど、一応仕事もして、自分で生計を立てて一人暮らしをしている。それだけで目覚ましい成長だと思いたい。

 

で、曲がりなりにも6年ブログを続けてこれたわけで。何事も長続きしないぼくがここまで続けてこれたわけで。それはもうすごいことなわけで。そして6年も続けていれば、積み上げてきたものがそれなりにあって。さらにこのブログをやっていたおかげで得られたものがたくさんあって。

 

ということで今日は、この6年間で積み上げてきたものと、このブログから得られたものを振り返ろうと思う。

 

積み上げてきたもの

積み上げてきたものというか、単純にPVとか記事数とか、そういう数字面を振り返ってみたい。データソースは Google Analtytics。

 

まずPV。

昨日までの累計PV数は、1,263,633!!

 

126万...。すごくない...?

 

単純計算で、月平均17,500PV。実際には始めたばかりのころに3回くらいはてブでバズったので、そのときだけ異常にPVが跳ね上がっている。けど最近はだいぶ落ち着いてきていて、月3,000PVとかそのくらい。昔はそれなりにPV数を気にして対策していたのと、当時ブログが流行っていたのでいろいろアクセスも増えやすかった。

 

続いて記事数。

この投稿を含めて、426記事。

 

これも単純計算で5日に一回、ブログ書いてたことになる。(計算合ってる?)

 

最初の2年くらいまでは、ほぼ毎日書いてる時期もあったくらいたくさん書いていたけど、働きはじめてからは月に多くて4〜5本くらいのペースが続いている。生きづらさ自体が徐々に和らいでいって書くことがなくなったのと、忙しくなって時間がなくなったことで、ペースが落ち着いて行った。

 

ちなみに、2017年7月からもう一つブログをやっていて、そっちはブログとツイッターの間くらいの立ち位置のサブブログ。おもに仕事帰りにその日一日を簡単に振り返る日報の役割を持っている。書かない日もあるけど、基本的に平日は毎日書いているので、記事数はすでにこのメインブログを超えていて、585記事。

 

ほんとに淡々とぶつぶつと書いているだけで、検索にひっかかるような記事でもないので、アクセス流入はほぼ100%ツイッターから。一日5〜20PVくらい。およそ3年間の累計は15,093PV。スマホでぽちぽち更新してるので、こっちよりかしこまらずに文章を書けるメリットがあって、意外とあっちのほうが本音を書いてたりする。

 

サブブログ→https://enpitsu.hateblo.jp/

(6月は土日も含めて毎日更新にチャレンジ中です)

 

次は、これまでで一番読まれた記事。

 

126万PVの内、一番読まれたのは 226,401PV のこちらの記事。

頑張れない、努力できない人の生き方 - 生きづらいふ

 

内容自体は、ちょっと情けないというか恥ずかしいような内容なんだけど、タイトルがよいのか検索流入が安定している。ブログはじめて半年後くらいに書いたんだけど、当時はSEOを気にしてタイトルも工夫していたのでそれがうまくいったような感じ。

 

最後に、426記事の中から一つだけ紹介したい記事をピックアップ。

 

最初は印象に残っているというか、気に入っている記事を紹介しようと思ったんだけど、どれにしようかと昔の記事をさーっと見返しているときに、「あ、これは」と思って開いて読んだら、我ながらいいこと書いてるなと思ったのでこれを。

 

生きているほうがいいに決まってる - 生きづらいふ

 

これを書いたとき、友人に自殺願望を抱えている人がいて、その人に伝えたくて書いたものだった。

 

ブログから得られたもの

このブログをやっていたおかげで得られたものがたくさんある。

 

いきなり下世話(?)な話になってしまうけど、当初はGoogleアドセンスをやっていたので、いくらかの広告収入があった。ほんのちょっとしたお小遣い程度の微々たるものだったけど、お金が発生していた。(いまはやっていない)

 

当時はお金がなかったので、少しでも収益が出ていることが嬉しかった。

 

そして、人との出会いも得ることができた。

 

このブログをやっていたおかげで出会えた人がたくさんいる。記憶が定かじゃないけど、たしか一番最初はリバ邸八王子の人たちだったか。何度か遊びに行かせてもらった。あとはブロガーの食事会みたいなところに呼んでもらったりもした。コミュ障すぎてほとんど喋れなかったけど。

 

さらには「石の裏のダンゴムシの会」というコミュニティを立ち上げたことでも、たくさんの人と出会った。同じような生きづらさを抱えている人たちが集まって、それぞれの悩みを話したり、聞いたりするオフ会みたいなもので、月に一回活動していたので、少なくとも50人くらいの人と出会ったと思う。

 

ずっと対人恐怖のような状態で、人と関わりたくない、人が嫌いと思っていたけど、この会で出会った人たちのおかげで、人と接するのは楽しいんだということに気づけた。(ぼくは活動を降りていますが、その会自体はいまも存続しているので、興味ある方は過去記事から探すか、「石の裏のダンゴムシの会」でググってみてください)

 

そしてそして、さらにはこのブログをやっていたおかげで就職できた。

 

あまり詳しくは書いてこなかったけど、このブログをきっかけにぼくのことを知ってくれた方から突然ツイッターでお声がけいただき、なんやかんやあって入社させていただくことになった。そのまま3年働き、いま入社4年目を迎えている。(※その方は人事担当とかそういう方ではないです)

 

まったく大袈裟でなく、ブログで人生が変わったと言える。

 

この就職のおかげで、またたくさんの人と出会って、いろんな経験をして、いろんなことを学んだ。いま仕事自体はとても難しく苦戦しているけど、ここでの経験とか出会いはほんとうに財産だと思っている。

 

3年前、ほんとうになんにもできなかったけど、いまは少しはできることが増えた。なにより人とのコミュニケーション力が格段に上がった。もともとマイナススタートなのでまだまだ標準以下だけど、過去の自分と比べれば雲泥の差だ。そして純粋に人と話すことを楽しいと思えるようになった。というか、そう思える人たちと出会えたことが一番幸せ。

 

就職できたおかげで、一人暮らしも始めることができた。はじめてから一年半、一応不自由なく生活ができている。たまーにひとりで寂しいなあと思うこともあるけど、基本的にはひとりの時間を謳歌している。

 

ということで、このブログを続けてきたおかげで、余りあるくらいたくさんのものを得た。得たというか、読んでくださっている方々に与えていただいた。まず誰にも読まれていなかったら、確実にここまで続けてないので読んでくださっているだけで大感謝です。本当にありがとうございます。

 

辞めようかなと思った時期も何度もあったけど、いまは辞めるつもりはなく、このまま細々と続けていこうと思っている。とりあえず10年目を目指したい。そのころにはいい加減に「生きづらさ」と決別していたいけど、まあきっと一生付き合っていくのだろうと思うので。

 

最後に改めて、いつも読んでくださってありがとうございます。誰かに読まれているという実感が確実にモチベーションとなっているので、これからも引き続きよろしくお願いします。タメになるようなことは書いていませんが、なにか同じような思いを持っている人の心に刺さるようなことを書いていければと思います。

どうすれば幸せになれるのか『幸せになる勇気』感想

久しぶりに読書感想を。

 

ベストセラー『嫌われる勇気』の続編『幸せになる勇気』を読んだ。

 

前作を読んだのはもう5年くらい前で、友人に借りて読んだので手元にもない。なので内容をほとんど覚えていないんだけど、ひとつだけ覚えていることがあって、それは「課題の分離」という考え方。

 

人間関係で相手の顔色を伺ってしまったりすることはあるけど、相手が決めること、自分が決めることをしっかり分けて考えましょう的な話で、その行為・選択の結果を引き受けるのが相手である場合は、そこに自分は介入してはいけないし、気にする必要もないという。

 

たとえば、「相手に嫌われるかもしれない」と不安だとしても、嫌うかどうかを決めるのは相手で、そこに自分が介入して嫌われないようにコントロールするのはよくない、と。しっかり課題を分離して考えましょう、と。

 

この話だけ衝撃的だったのでよく覚えているんだけど、この5年間実践することはなかなかできなかった。

 

で、今回読んだのはその続編。

 

読書自体がけっこう久しぶりだったので、あまりすっと頭に入ってこないというか、読んでいても内容を自分の頭で咀嚼することがなかなかできず、活字をただ追っているだけという感じだったので、あまりうまく感想を書くことができないと思うんだけど、印象に残った箇所についてだけ書いてみる。

 

この本の最終章で、「自立」について書かれている。

 

この本でいう自立とは、経済的な自立とかではなく、精神的な自立。本に書かれている表現で言えば、「自己中心性からの脱却」。自立というのは、自己中心性からの脱却である、と。

 

どういうことか。

 

誰しも赤ちゃんの時代がある。赤ちゃんのころは、自分が世界の中心に君臨していて、自分が泣けば母親があやしてくれる、かまってくれる、食事をくれる、寝かしつけてくれる。自分の行動によって世界が動く。

 

なぜそうするか。それは赤ちゃんが「弱い」から。

 

放って置かれてしまってはすぐに死んでしまうような弱い存在だからこそ、周囲の助けを必要とする。そして弱い存在を人は守ろうとする。その弱さをもって、赤ちゃんは大人たちを支配している、と。

 

そして、弱さで人を支配しているのは赤ちゃんだけではない。一部の大人も。

 

多くの大人たちもまた、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論見ます。心配させ、言動を束縛し、支配しようとするのです。

 

赤ちゃんは大人たちに守ってもわらないと死んでしまうので、必然的に弱さを武器にして大人たちをコントロールしている。しかし大人になっても、いつまでも世界の中心に君臨して、周囲をコントロールしようとしてしまう人、つまり自立できていない人がいる、と。

 

ここを読んだときに、「うわああああああ」と頭を抱えそうになった。これじゃん、ぼくがやってることこれじゃん、と。要は、不幸アピールをして、かわいそうな自分を演出し、同情を得たり、サポートを得たりしようとしている。承認欲求を満たそうとしている。

 

意図的にそうしてるわけではないものの、深層心理としてはそうだと思う。チヤホヤされたいという承認欲求を満たすために、自分を責め、落ち込み、苦しみ、そんな自分を見てもらおうとしている。いまだに自分が世界の中心にいると錯覚している。

 

じゃあ、どうすれば自立できるのか。

 

結論から言えば、人を「愛する」ことらしい。

 

自立できていないとき、自分がまだ世界の中心にいると錯覚しているとき、人生の主語は「わたし」になっている。自分が中心だからだ。

 

しかし、人を愛せば、主語は「あなた」になる。世界の中心は「わたし」ではなく「あなた」になる。そしてさらに、愛する人と結ばれて二人で生きることになれば、人生の主語は「わたしたち」になる。自分だけの幸せでもなく、あなただけの幸せでもない、「わたしたち」二人の幸せを目指すようになる。

 

「楽をしたい」「楽になりたい」で生きている人は、つかの間の快楽を得ることはあっても、ほんとうの幸せをつかむことはできません。われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。 

 

ということで、この本のメッセージを一行で表すなら、

 

「幸せになりたいなら、人を愛しなさい」

 

になる。

 

わかりやすいといえばわかりやすいし、納得感もあるっちゃある。ただ実践するのは難しいな、と。自分に矢印が向いている人間がどうしたら相手に矢印を向けられるようになるのか。そこが難しいなと思った。

 

ただ目指すべき道を示してくれたという意味では読んでよかったなと思った。それに、前作と同じ対話形式の本なので、久しぶりの読書としても読みやすくてよかった。一週間くらいで読めた。

 

気になる方はぜひ。

 

幸せになる勇気

幸せになる勇気