生きづらいふ

人生をクリアに、シンプルに、さわやかに。

新年の抱負

新年あけましておめでとうございます。

 

昨年中に一年の振り返りができなかったので、ざっくりと振り返りから。

 

まず良かった点。ほぼ一年間、ずっと家の中で過ごしていたおかげもあってか、精神的にはかなり落ち着いていたのではないかと思う。何度かどーんと落ち込むこともあったけど、トータルで見ていけば感情の揺れ動きが少ない一年だったように思う。

 

それから、家で過ごす時間が増えた分、家の中を快適にしようということで、いろんなものを買って充実させることができた。仕事ができるように机と椅子を買ったり、ベッドを買ったり。家具ではないけど、MacBook ProAirPods Pro、iPhone SEも買ってやたらAppleにお金を落としたり。

 

関連して、丁寧に暮らすことをすごく意識した一年だった。家の中を充実させつつ、なるべく規則正しく、乱れないように過ごしたつもり。おかげで自炊の頻度が増えて、初挑戦した料理もたくさんあったし、食べたらすぐお皿を洗う癖までついた。

 

一方、良くなかった点。まずは一年前にこのブログに書いた10の目標を全然達成できなかったこと。月一で進捗を追っていくはずだったのに半年くらいで力尽きてしまって、結果ほとんど達成できなかった。一部コロナのせいにしているところもあるけど、ただただシンプルに意思が足りなかった。

 

ただまあ総じて、可もなく不可もなくという年だったように感じる。

 

では今年。今年はどんな一年にしたいか。

 

今年はなるべくシンプルな抱負にしようと思ったので、特に達成したいことを2つ。今年やりたいことをいろいろ思い浮かべて、それらを極力シンプルに集約した結果、この2つになった。

 

・恋人を作る

・収入を上げる

 

「恋人を作る」に関してはまずは恋人云々だけでなく、普段の人付き合いを大切にしたいという気持ちも含んでいる。

 

友だちがいないという自分を振り返った時に単純に寂しいな、と思ったのと、将来大丈夫かな...といろいろ不安になったので、せめていま付き合いがある人たちは大事にしていきたいと思った。いままでほとんどしたことないけど、自分から連絡してみたり、誘ってみたり。

 

既存の関係だけじゃなくて、そういう機会があればなるべく新しい人とも仲良くしていきたい。ただ、性格的にたくさん友だちを作れるタイプでもないので、心地よいと感じられる範囲で開拓していきたい。

 

そして去年も目標に掲げておきながら何の成果も挙げられなかったので、今年こそは恋人ができるようにがんばりたい。人生全般の大目標はなにか?と考えた時に、やっぱり「幸せになること」「充実を感じられること」であって、じゃそれは何によって得られるかと考えた時に、居心地のよいパートナーがいることだと思ったのでなんとかがんばりたい。

 

もうひとつの「収入を上げる」に関しては、仕事面での意気込み。本当に紆余曲折ある中で、去年の後半にようやく成長しやすい環境で仕事させてもらえるようになったので、そのありがたい環境を活用させてもらいながら、ちょっとでも成長していきたい。

 

これまでは本当に便利屋というか、とりあえず需要があるところにポッと入っていってなんやかんやで凌ぐ、みたいな形でやってきたのでなにか身になった実感がなかった。でもようやく腰を据えて、尊敬できる上長や先輩方から盗みながら、成長できる環境に入れていただいたのでそこで頑張りたい。

 

単純に「もっとお金欲しい!」という気持ちではなく、自分の成長度合いを可視化できるものが収入だと思ったので、収入を上げるという言葉にした。ただ、お金で幸せを感じるタイプではないものの、多少お金と幸福が比例するとも思うのでそういう狙いも。

 

ということで、今年はこの2つを2大方針としてやっていきたい。去年の反省も踏まえて、具体的な行動目標はここでは立てないことにする。新年だとやっぱり意気込みがあるのでばーんと目標立ててしまうけど、だんだんと薄れていって結果一年経って「なにもできなかった...」というネガティブな気持ちだけ残るので。

 

今日書いた方針を念頭に置きつつ、具体的に「よし、〇〇をやろう!」と思い立った時に行動に移した方が比較的うまくいきそうな気がするので、そういうやり方で今年はいければ。

 

このブログに関しても変わらず続けていきたいと思っている。多少の変化はあるかもしれないけど、ブログを書くこと自体はきっと辞めないと思うので引き続きよろしくお願いします。また上述の通り、人付き合いを大事にしていきたいのでブログやツイッターを見てくださっている方とも会話できたら嬉しいです。

 

というわけで、今年も一年よろしくお願いいたします。

生存報告と言い訳

生きています。

 

7月19日に書いて以来、4ヶ月もブログを更新していなかった。こんなに書かなかったのはこのブログ史上最長かもしれない。

 

ここまで放置していたことに特に理由はなく、ただただ書くことがなかったからだ。いやそれは「生きづらいふ」という看板を掲げているこのブログにとってはとても良いことなのだと思う。生きづらいと感じることがなかったということなのだから。

 

実際この4ヶ月間、生きづらいと感じることはあまりなかった。当然あまりうまくいかない日や落ち込む日、ダメだああああと自己嫌悪する日もあった。以前ならなにか突破口や救いのようなものを求めて、このブログに筆を走らせていたと思う。

 

けど、今回はそこまでではなかった。自分でもよくわからないけど、ブログを書こうという気にならなかった。ただそれだけ。もうブログがめんどくさいとか、書きたくないとか、興味がないとかそんなことは全然ない。ただ書かなかった。それだけのこと。

 

いや毎週日曜には「今日はブログ書こうかな」と思ってはいたのだ。「今日はあれとあれとあれをやって、時間が空いたら夕方か夜にブログを書こう」となんとなく予定を立てていたのだ。しかし世の中予定通りにいくことなどそうなくて。たいていどこかでダラダラっと過ごしてしまって時間がなくなり、「ブログはまた来週だな」と、未来の自分にパスしていた。

 

それを繰り返して早4ヶ月。ようやくブログを書く気分と時間を確保したので、こうして書いている。しかしこれといって書くことはない。とりあえず生きていますという生存報告と、ここまで放置していたことへの言い訳を書こうと思い、久しぶりにはてなブログのエディタを開いた。

 

そもそもこんなに長文を書くこと自体、久しぶりだ。仕事でも文章を書くことはしているが、仕事で書く文章とブログとではまるで違う。特定の誰かと意思疎通を図るための文章、あるいは適切に情報を整理して広く共有するための文章ばかり仕事では書いている。一方、ブログは不特定の誰かに自分のとりとめのない気持ちや思考を表現するために書く。

 

ここまでで860字くらい書いているけど、案外楽しい。たいしておもしろいことは書いていないけど、頭に浮かんだことをつらつらと書いていくことが楽しいということを思い出してきた。もっと書きたいとも思えてきた。

 

ただネタがない。

 

どうしてだろう。どうして書きたいと思うトピックが浮かばないんだろう。以前は浮かんでいたのに。

 

何かこう普段から自分や周囲について思い巡らす時間が減ったからかもしれない。コロナが蔓延する世の中になり、仕事はほぼ完全リモート体制で始終自宅で仕事をするようになった。通勤することがなくなったのでほとんどを家の中で過ごす。歩いたり、電車に乗ったりする時間がなくなった。

 

これまではそういう移動時間に何かいろいろ考えたり、思ったりしていた。そういう時間がなくなって、いまは仕事をしているか、それ以外の時間はほとんどYouTubeを見て過ごしている。だから内省したり、思い巡らせたりする時間がなくなってしまい、結果ブログに書くような話題が浮かばなくなってしまったんじゃないか。そんな気がする。

 

あとは本も読まなくなった。それはもっと前からそうだけど、やっぱり本を読むといろいろと考える。書いてあることを起点にして、いろんな考えが浮かんできてそれをきっかけに自分なりの思考の時間が始まったりする。けどそれもしなくなってしまった。

 

圧倒的に内省する時間がなくなってしまった。

 

これはいいことなんだろうか。変に余計なことを考えてネガティブにならなくなったという意味ではいいことなのかもしれないけど、何も考えずただ生きているだけなような気もしてあまり良くない気もする。いやたくさん考えていた時期もたいして良くはなかったのでどっちみちダメなのかもしれない。

 

なんにせよ、とりあえず今日こうしてブログを書いて、文章を書くことを楽しいと感じられたのでまずはそれでよしとしよう。またすぐに何か書きたいとも思えたので、きっとそのうち書くだろうと思う。そのために明日からネタになりそうなことを血眼になって探そう。

30秒で自己肯定感を上げる方法を見つけた

こないだ皿洗いをしているときにふと思った。

 

家にはいろんな物があるなあ、と。

 

そして、その物のほとんどが自分のお金で買ったものだなあ、と。

 

見渡してみると、お皿、コップ、スポンジ、洗剤、フライパンなどのキッチン用品。右を見れば、炊飯器にティファール、そして冷蔵庫。首をひねってリビングのほうを見れば、テレビ、テーブル、ソファ、カーペット。Nintendo SwitchPS4。そのほか、本や、PCや、とにかく改めてひとつひとつ目にするとかなりの量の物があった。

 

そしてこれらは全部、自分で働いて稼いだお金で買ったんだ。

 

つまり、自分がつらい仕事に耐えたり、乗り越えたり、がんばったりした対価として、いまこれだけの物が身の回りにある。このたくさんの物たちは全部、自分ががんばってきた証なんだ、と考えたらなんだか少し報われたような不思議な気持ちになった。

 

仕事が嫌だなあ、とかつらいなあ、と日々思い、なんのためにがんばってるんだろう、とかこの苦行はいつまで続くんだろう、とかやるせない気持ちになるけど、でも改めて周りを見てみれば、ちゃんと自分のがんばりが形になっていた。

 

自分がこれまでやってきたことが物という形で可視化されたような気がして、すこし気持ちが楽になった、と同時にもっとがんばればもっと豊かになれる、とも思えた。一方で、すでにこれだけ豊かなんだからもう十分かなという気持ちも少々...

 

仕事ができなくて、スキルも身につかなくて、なにも成し遂げていないな、と思っていた。けど、このことに気づいて少し自分を肯定できた。まだまだがんばらないといけないけど、これまでやってきたことはちゃんと自分の生活を豊かにすることに繋がっているんだ、もっと大袈裟にいえばちゃんと自分の幸せに繋がっているんだ、と思えた。

 

これからも心が折れそうになる場面がたくさんあると思うけど、そんなときは周りを見渡して、「ああちゃんとがんばってきたんだ」と自分を肯定してあげたい。

耽りたい

物思いに耽る。

 

そういう時間が好きだ。

 

取り止めもなく、なにかを思う。あのときのこと。あの子のこと。これからのこと。

 

小学生から高校生にかけて、一年に一度、家族旅行に行っていた。親が車を運転し、静岡まで旅行に行くのがお決まりだった。だいたい夏休みに2泊三日して帰ってくる。その帰り道の時間が好きだった。

 

いわゆるお盆の帰省ラッシュの只中。お昼過ぎにホテルを出発しても、すぐに渋滞に巻き込まれてなかなか進まない。数時間経って、やっとやっと渋滞を抜け出してすいすい進むようになったころにはあたりはもう真っ暗。

 

真っ暗な高速道路。あそこを走っているときが好きだった。

 

窓の外を走り抜けていく何本もの街頭にぼんやりと目をやりながら、たまに前方を見たりすると、いくつものテールランプが連なっていて綺麗だった。

 

弟たちはすっかり眠ってしまっている。僕以外に起きているのは、何時間も運転しっぱなしで疲れているだろう母だけだ。

 

会話をすることもなく、お互い自分の世界に入り込んでいた。

 

ゴーっという車が駆け抜ける音だけが響く中、ただ自分の世界に入って物思いに耽っていた。なにを考えていたのかは覚えていないし、たいして意味のあることは考えていなかったと思うけど、でもあの時間が心地よかったことは覚えている。

 

いま普段の生活のなかで、そうやって自分の世界に入り込んで耽る時間はそうない。

 

ついスマホを手に取って、必要なんだか不要なんだかわからない情報を無限にインプットしてしまって、自分の世界に入ることなんてしない。

 

やっぱり物思いに耽るには乗り物に乗って移動しているときが一番適している。

 

そのために移動する時間を作りたいとさえ思う。できれば夜がいい。夜行バス、夜の飛行機、タクシー。もしくは免許を取って自分で運転するのもいいかもしれない。慣れないうちは自分の命を守るのに必死で物思いに耽っている場合ではなさそうだけど。

 

いったいぼくはそうまでして、なにを考えたいんだろう。いつもなにを考えていたんだろう。

 

そう思って、いくつかの場面を思い起こしてみる。自分が夜の空を見つめながら耽っていた時間を。

 

片思いだ。

 

その時のぼくは片思いをしていた。

ただ平凡に幸せになりたい

ただ平凡な幸せを手に入れたい。そう思うのは贅沢だろうか。

 

誰もが羨む大成功とか、大それた人生なんていらない。ただただ平凡で、庶民的で、小さくて、ささいな日常に幸せを感じられる、そんな人生がほしいだけ。

 

小さい頃は、当たり前のようにそんな人生が手に入ると思っていた。よくも悪くも普通の人生を歩むのだろう、と。社会が作った"普通"の人生を歩むと信じていた。

 

22歳で大学を出て就職。スーツを来て普通のサラリーマンをやって、特別優秀なわけでも、反対に無能なわけでもない"普通"の社員として仕事していると思っていた。早ければ27歳、遅くとも32歳くらいまでには結婚して、子供ができていると思っていた。

 

そんな人生をリアルに描いていたわけでも、そんな人生を歩みたいと強く願っていたわけでもないけど、なぜか無根拠にそうなるだろうと空想していた。小さいころドラえもんとかクレヨンしんちゃんを見ていて、そこで描かれるひと昔前の理想の家族像を当たり前だと信じていたからかもしれない。 

 

いまも特別不幸なわけではない。少なくとも身の回りの環境としては。

 

衣食住は満たされている。それだけでも感謝すべきことかもしれない。

 

それなのに、毎日なにかが不満で、どこか満たされなくて、苦しい。

 

自分のことが好きになれず、仕事のことも好きになれず、毎日消耗している。なにかに向かって精力的に生きているわけではなく、毎日をやり過ごすように生きている。余暇の時間さえも、心から楽しんでいるわけではなく、ただ時間を埋めているだけのようだ。

 

そうじゃないんだ。

 

ただ平凡に幸せになりたいんだ。

 

それがどんな形なのかはわからない。平凡な幸せとはなんなのかと問われたら、明確に答えることはできないかもしれない。けど頭のなかでなんとなくイメージしている幸せ像ならある。

 

それはもしかすると、これまでの人生で触れてきたいろんな作品のなかからかいつまんだり、そこから着想してつくった自分なりの幸せ像なのかもしれない。読んだ小説、見たドラマ、映画。そんな作品のなかで描かれたいろんな幸せを集めて作った幸せ像。

 

そこまで高望みしていないはずなのに。それでさえ幸せを手に入れるのはこんなにも難しいのかと。日々こんなに耐え忍んでいるのに。心身をすり減らしながらも我慢しているというのに。

 

幸せとはほんとうに存在するのかとさえ疑ってしまう。

 

でも、心のどこかではわかっている。幸せはそこら中にあるのだと。それに自分が気づいていないだけなんじゃないか。もしくは気づこうとしていないだけなんじゃないか。もしかすると、ぼくは自分で不幸でい続けることを選択しているのかもしれない。

 

幸せになるには自分自身が変わらないといけないと薄々わかっている。

 

けどいったいどうすれば。その方法がわからない。

 

しかし、仮に方法がわかった時、ぼくは真っ先に幸せへと向かって突き進むだろうか。

 

もしかしたら、まだ不幸でい続けることを選ぶかもしれない。わからない。けどそんなような気もしてしまう。なぜだろう。幸せになることを望んでいるはずなのに。

 

どこかで不幸でいることに安心を覚えているのかもしれない。長年慣れ親しんだ場所から抜け出すことが怖いのかもしれない。オンボロの狭い狭い家に住み続けた結果、きれいで広い新築の家に引っ越すチャンスができたとしても、安心感からオンボロの家に住み続けることを選択するような感覚かもしれない。

 

幸せになるのは思っていたより難しい。

 

けどせめてこの、幸せになりたい、という気持ちは大切にしたい。

 

本当にダメなときは生きる活力が一切なく、いますぐここから消えてなくなりたいと思ってしまう。

 

ただそこから這い上がって幸せになりたいと思えるようになったのなら、それは生きようと思っている証拠で、なおかついまより良くなりたいという前向きな思いだ。

 

実際にどうしたらいいのかはわからない。

 

けどいまより、良く生きようと思う気持ちは大切に、自分を励ましながら生きていきたい。

 

そして、いつか日常のほんのささいな出来事に幸せを感じられるようになりたい。