生きづらいふ

人生をクリアに、シンプルに、さわやかに。

聖人君子になろうとしない

僕の目には身のまわりの人が聖人君子に見えることがあるのです。やさしくて、思いやりがあって、楽しくて、おもしろくて、大人っぽくて、自立してて、自制心があって、人当たりがよくて、努力ができて、センスがよくて、要領がよくて、器用で。なんであの人はあんなにすばらしい人なんだろう。それに比べて僕はなんて未熟で最低でダメな人間なんだろう、と。

 

そうやって自分と他人を比べて、自分を卑下し、他人を賞賛することが多い。たしかに人として魅力的な友人などはたくさんいるのだけど、ちょっと過大評価をしすぎている、というか、あまりにも「いいところ」にしか目を向けていなさすぎるんじゃないか、とふと思った。

 

たぶんどんな人にも「いいところ」と「わるいところ」がある。僕が聖人君子のようだ、と思っている友人にもわるいところはあるだろう。ダメなところの1つや2つはあるだろう。けど、それを直視しないで、勝手にいいところにだけ目を向けて、勝手に自己嫌悪しているのはちょっとばかばかしいような気がしてきたのだ。

 

なんで僕は人を思いやることができないんだろう、と自己嫌悪することがある。僕は他人のことなんかどうでもいいと思ってしまったり、他人を心のなかで見下してしまうような最低な人間なんだろうか、と不安になる。自己愛性パーソナリティ障害なんじゃないだろうかと本気で疑ったほどだ。

 

たしかにその傾向はあると思うんだけど、でも。ほかの人たちだって、そこまで親しくない人にたいしては「どうでもいいな」と思ったり、ちょっと軽蔑したり、ということをするかもしれない。ただそれを表に出さないだけなんじゃないだろうか。

 

そもそもすべての人を見下さずに、思いやりの気持ちで接することはかなり難しいんじゃないだろうか。そんな聖人君子はめったにいないのではないだろうか。そんなとてもハードルの高いものと自分を比べて、自己嫌悪する意味はないんじゃないだろうか。

 

聖人君子なんかめったにいないのに、そうじゃない自分を嫌いになって苦しくなる。もうすこし自分の「わるいところ」を受け入れる勇気をもったほうがいいんだと思う。というか、そもそも自分はそこまでいい人間ではないんだと自覚しよう。「いいところ」もあるし、「わるいところ」もある。そんな自分を受け入れよう。