生きづらいふ

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人と接するときのマイナスとプラスの話

僕はひとと接するとき、なるべく「害を与えないようにしよう」と思っている。相手が嫌がることをしない、傷つくことを言わない、不快にさせない。ただ自分が嫌われたくないがためにそうしているだけなのだけど、そのおかげでいつも波風の立たない人間関係を維持できている。

 

ただ、それだけではダメだと最近思うようになった。

 

「害を与えない」というのはつまり「マイナスを与えない」ということだ。それも大事なことかもしれないが、これからはひとに対して「プラスを与える」こともしていこうと思うようになった。プラスを与えるというのは、自分からひとに対してなにか働きかけるということだ。身近なところでいえば、気づかいとか親切とか。

 

4月から働きはじめて、職場でいろんな大人の方を見ていてそう思うようになった。ひととの接し方、コミュニケーションの取り方、いろんな場面で「すごいなあ」と思わされた。大人っていつもひとのことを考えて動いているんだなあ、と。僕は自分のことばかり考えてしまっている。

 

思えば僕はいつも「マイナスを与えない」ように生きてきた。プラスをしようとするのはリスクが付きまとう。たとえば、目の前のひとがとても落ち込んでいて心配になったので声をかけてあげようと思ったとする。そこで声をかけてあげるのは「プラス」かもしれないが、もしかしたらそのひとはいまは放っておいてほしいと思っているかもしれない。だとしたら声をかけたら「マイナス」になってしまう。その可能性を考えてしまって、いつもためらってしまうのだ。

 

自分が相手になにかをしたとき、相手にとってそれが「プラス」になるのか「マイナス」になるのかは相手が決めることなので自分にはわからない。マイナスになるという可能性がある以上、なにもしないほうが得策だろうと思って、結局なにもしないという安全策を取ってしまう。

 

おなじ理由で僕はひとを遊びに誘ったり、話しかけたりできない。あの人を誘ってみたい、あの人に話しかけてみたい。そう思ったとしても、それが相手にとって迷惑かもしれない、と思ってしまって結局なにもできない。ダンゴムシの会のように「やります!」と不特定多数に声をかけて、参加するかどうかはその人の意思にまかせるという方式でなら大丈夫なのだけど、特定のひとを誘うのはなかなかハードルが高い。

 

結局は自分が傷つくことを恐れているだけなのだ。断られたり、嫌われたりするのがこわくて、その危険をおかすくらいならなにもしないほうが安全だという策を取っているだけなのだ。プラスを得るチャンスを逃してでも、マイナスを味わいたくないという心理。

 

でも今後はほんのちょっとでいいから、リスクをおかして「プラス」の行為をしていきたい。すこしだけリスクをおかせば、自分もひともハッピーになれるかもしれない。安全策を続けていれば、平和は維持されるかもしれないが、それ以上楽しいことは起こらない。

 

いままでの自分が「マイナスを与えない」ことに10割の力を注いでいたとするならば、今後は「マイナスを与えない」を9割、そして「プラスを与えてみる」を1割という配分にしていきたい。たった1割だったらそんなにむずかしくはないだろうから。